ここ数年来、ほぼ毎年かならず行くのが、大槻能楽堂の新春公演。2日連続あって、連日行くこともあれば、今年のように1日だけということも。『翁』のあとに振る舞い酒もあって、毎年の嘉例行事になっている。
大槻能楽堂新春公演
『翁 十二月往来』梅若玄祥・大槻文蔵、浦田保親、茂山千三郎
『鎧』茂山千五郎、茂山正邦、松本 薫
『花筐 筐之伝』山本順之、山本博通、福王茂十郎、福王和幸、福王知登、喜多雅人
『翁 十二月往来』は初見。謡本をみると、翁が二人出て、十二ヶ月の縁起物を謡い、翁之舞を相舞するというもの。体格的に対照的としか言いようのない二人であるが、それは別に大して気にならず(全く気にならないわけでもなかったがw)、まず千歳(浦田保親)が舞い上げて目付柱のところに平伏し、翁の面をつけた二人が大小前に並び立ったとき、千歳が笛座前に、三番三(茂山千三郎)が常座に進んで、四人が並び立った。仏像の脇侍とまでは言い過ぎかもしれないが、ただ、その舞の直前まで並び立っていた姿は、神聖さもあって佳かった。相舞は、ところどころずれるところもあったけど、まずまず息は揃ってたかな。それより、玄祥さんが「霜月の」と謡い出す前に絶句しかけたのが、ちょっとびっくり。まぁめったに出ないからしかたないのかも。瑕瑾になるほど間が空いたわけでもなかったから、それほど気にはならず。千歳、三番三はそれぞれに気合が充ちていて、正月らしくて満足。こういうのは上手いとか下手とかいうのではなしに、全身に気合が充ち満ちている(もちろん、それを表現するための技術が備わっているのは当然の前提だけれども)かどうかが大事だと思う。
『鎧』も初見。『末広かり』と筋は似ているが、太郎冠者に買い物を頼む人間が、買ってきてもらうものをわかっているのかいないのかが違い。それと、鎧に関する太郎冠者の語リが聴き処。最後のオチも「しょーもない」といえば、それまでだが、おもしろい。
そして、眼目の『花筐』。
昨年、成果の多かった順之さんの舞台なので、期待度は高い。ただ、今まで『花筐』という曲をおもしろいと感じたことが、私はなかった。近藤乾之助さんの舞台を観たときも、残念ながらそうだった(2006年10月)。
今回は舞台を観るにあたって、もうちょっとていねいに詞章を読んでみたのだが、けっこうおもしろくできている。
ただ、推測するに、どうもやることが多くてごちゃごちゃして、観るほうからすると、クセのあたりになると疲れて睡魔に負けてしまうのではないか。逆に言うと、演者からすれば「おもしろい」が、よほど曲として一貫したものを描き出さないと、観るほうは「おもしろくない」ということになってしまいそうな。ちょっと言い過ぎたかな(^_^;)
さて、今日の『花筐』、これが年始早々の収穫。
前段、前ワキツレ(福王和幸:使者)に呼ばれて出た姿の安定感からして、期待度はなお高まる。ワキツレから文と花筐(花籠)を受け取ったシテは、常座に下居し、花筐を前に置いて文を読む。ちょっと「?」というところもあったけれども、声は朗々として、下居の姿も抜群。読み終えて、「書き置き給ふ水茎の跡に残るぞ悲しき」と文を少し下におろして、そのあと文をじっと見るように面を下向けるあたりの姿の佳さ。そのあと、中入前に文と花筐を持って立ち、「御花筐玉章を抱きて」と花筐を身に添えるように抱く姿も、可憐ささえただよって趣深い。
後段、華やかな狂女越(だと思う。知識不足で不確かです。ごめんなさい)の一声の囃子でツレ(山本博通:侍女)を先立てて、後シテの出。この日は小書が付いているからか、白水衣に緑地に花筏を裾にあしらった腰巻(花と裏地が紅)の出立。面は前段同様、若女だと思うのだが、ちょっと目じりが下がった不思議な感じ。遊女っぽさというのか、ちょっと蠱惑的な感じもありつつ、かといって下品ではなく、白水衣という装束との取り合わせもあってか、聖性さえ感じさせるような。謡も(謀りとはいえ)狂女らしく、しっかりと気を込めた謡いぶり。
今日はシテとツレとの息もよくあっていたように思う。シテとツレとの掛合で、ツレが「あれ御覧候へ雁がねの渡り候」と橋掛かりで二人並び、ツレが上方を眺めやるようにして、シテもそれに付き合う姿は、なかなか空間性が感じられて趣があった。
そのあと、シテツレ連吟の一セイで舞台へ。カケリも定型どおりながら、技術・気合ともに充実、地「飛び立つばかりの」と目付柱上方を見やる姿、「及ばぬ恋に浮船の」と一足ツメル姿、そして上歌となって型の続く一連、いずれも連綿と展開されて、“おもしろい”。言ってみれば、ここがこの曲の第2の見せ場。
ここでワキに花筐を打ち落とされる場面となるのだが、ツレの「あら悲しや」以下の謡と、筐を拾ってシテに渡す型がしっかりしていたので、物語(=曲)がだれなかったように思う。意外に、ここも重要なのかも。ここがちゃんとできていないと、このあとに続くクルイ(筐之段)が活きてこなくなるのかもしれない。
次の見どころ、「恐ろしや」以下の一連。小書があるので、「恐ろしや」の一句目のあとに大返という囃子の替が入って、シテは大小前を小さく廻り、返句「恐ろしや」へと。ここまでが物語として一貫して展開されてきているので、この大返が利いたように思う。ここから先は見入ってしまったので、あまり所作をメモしていないが、小書もあってか、少し通常とは異なっていたようにも見えた。ただ、続々と展開される型が連綿として、結果としてシテの心情を描き出していたことは確かだと思う。もうこまごまとは書かないが、クセもまた同様の充実。クセの型については三宅 襄『能の鑑賞講座 一』に詳しいので、興味がある方はそちらをご覧くださいませ(^_^;) ただ、「夜更け 人静まり。風すさましく。月秋なるにそれかと思ふ面影の。あるか なきかにかげろへば」での面の遣い方や身体の詰め方などは殊に趣深かった。これも『東北』や『姨捨』で見せてくれた、鍛えあげられた身体のなせる業なのだろう。
キリ。ワキからの宣旨をうけて、最初ワキにアシラッていたのを、「直なる御代に」とワキから少しはずして、子方(武富晶太郎:王=継体天皇)にアシラッたのもこまかいかもしれないけれども、ていねいで佳い。キリは晴れやかに大きく。子方やワキ、ツレを見送ったあと、それに続いて三ノ松まで進み、小回りやユウケンしてトメ。
以上、正直なところ、全部の型やら謡のポイントやらを把捉しようと思っても、とうてい私には不可能。ただ、それくらい、いろいろとあることくらいはわかる。それらが『花筐』という一曲にまとめ上げられるかどうかが難しいのかもしれない。
今日は、初めて能としての『花筐』を観ることができた気がする。
年始早々、縁起がいいね。